私の思い
私の思ったこと、感じたことなどを文字に残したいので、今回はそれをブログにさせてもらう。
世の中にとても生きづらさを感じてる私は、小学校ぐらいから生きる意味を探してました。何のために生きてるのだろう。何の為に私はうまれたのだろう、と。
それが見つから見つけられないから余計に生きる必要を感じれなくて生きづらさを感じてた私は辛かった。
普通なら生きる意味なんて見つけれなくても生きてるだけで丸儲けとか、そんなこと何も考えず生きていけるのかもしれないけど私は、そんな風にはなれなかった。
私が今、生きてるのは何度もした自殺が全て未遂に終わってるから。周りに殺されなかったから。正直その程度だ。
今は少し前向きになれて生きようともしてるけどね。
それでも私は、メンタル爆発したメンヘラだ。鬱になることもある。
昨日の私は、低気圧にぶん殴られて鬱に少しの間だけど、なっていた。なってしまったとは言わないよ。メンヘラだもん鬱にぐらいなるさ、そんな自分を否定したりしない、責めたりしない。自尊心を育てるためにも。
昨日、鬱になった時に私は、少し前に聞いた母のある言葉を思い出した。
「私の分もあーたろが病んじゃったのかもしれない」という言葉だ。私がメンタルを病むまで自分でいうのもなんだが私が皆の負の感情を受け入れ背負って我慢していた事により家庭がなんとか成り立ってた部分がある。いや、私がそうしなくても喧嘩の多い家族になってただけかもしれないけどそうなるとうちの家庭はどこかで崩壊をしていただろう。
私が幼い頃、母が病まなかったのをすごいと思うほど当時の母は大変だった。姑への気遣い、慣れない仕事、家事・・・entと様々なものが母にはあった。それでも病まなかった。その分ももしかしたら母は私が病んだのではないかと言う。
しかし、あの夏に私はメンタルを爆発させた。その時に今までの我慢をぶちまけた。そしたら、家族が変わり始めた。前回の記事で父と私の関係を書いたように。
そこで私は、思ったのだ・・・。私は、家族の負の感情やら何やらを背負うために産まれて生きたのだと。ならば、私の役目はもう終わった。もう死んでもいいんじゃないだろうか?
鬱である。鬱になってるからの思考回路である。
しかし、メンタルが回復してきてからこう思った。私の役目が終わったんなら私は私のために生きていいんじゃね?ボーナスステージだよ。
仮に産まれて生きてきた意味をそれだとして、だったらもう自分の生きたいように生きていいように思えた。
もしかしたら、また鬱になって死んでもいいとか考えてしまうかもしれない。それでも何とかいきていこう。がんばれ、私。がんばれ、あーたろ。