あーたろのゆるりと。

日々のことやら伝えたいことやら

生と死に触れてそれでも私は生きる。

自殺未遂(?)や自傷行為ととれる内容があります。虐待とも取れる内容もあります。
苦手な方はご注意ください。




私が、生き物の死に初めて触れたのはいつだろうか・・・
きっと記憶もない幼い頃だろう。その死はその辺にいる虫か何かのものだろう。


では、人間の死に初めて触れたのはいつだろう。
小学校低学年だったかな?それとも保育園の頃だっただろうか?
曖昧だ。まぁ、それぐらいの頃に、ひいおばあちゃんが死んだ時のお葬式だろう。


その時は死がなにかまだよくわかって無くてないて何でおばあちゃんはこの箱(棺桶)の中で寝ててお花をたくさん入れるんだろ?とか考えたり泣いてる母を不思議そうに眺めてた記憶がある。



次に人の死に接したのはひいおじいちゃんが亡くなった時だった。確か小学生低学年か中学年ぐらいの時だ。
その時はどうやって亡くなったのかも聞いたし死への理解もあったのでそんなに周りを不思議に思ったりはしなかった。



ひいおじいちゃんが、亡くなった頃からだろうか、私が死にたいと思い始めたのは。
多分、3年生ぐらいだった思う。(ひいおじいちゃんが亡くなった時がいつかはとても曖昧だがこれはなんとく覚えてる)
なぜ当時、死にないと思ったのかは覚えてない



小学生の頃は死にたいと思っても自殺する方法が首吊りと飛び降り自殺ぐらいしか思いつかなかった。
首吊りは足のつかない高さにどうやってやったらいいのか当時の私は分からなかった。

飛び降りは私の住む地元が田舎なことをあり2階建て以上の建物というものがそもそも無く、この高さじゃ飛び降りても死ねないなとぼんやりと思っていた。

地元から出て飛び降りをすることを考えたが高所恐怖症の私じゃ上手く飛び降りれず失敗しそうだなと思ってしなかった。



中学生の頃、小学校から仲良かった友達が交通事故で亡くなった。
お葬式は平日で学校があったため行かせてもらえなかった。行きたかったが仕方ない。
その変わりと言ってはなんだが通夜に言った。棺桶に入ってる彼女を見て涙が止まらなくなった。1人では動けなくなるほど泣いた。ほかの友達の親が支えてくれて何とか入口の広場まで行った。私はひたすら泣いていた。

でも、次の日から友達が亡くなったことを嘘のように思えた。また、学校に行ったらいつものようにあの子がいて笑顔なんじゃないかと、明日にはいるんじゃないかなんてことをたまたま登校中に会った友達と話をしたのを覚えている。
スクールカウンセラーに友達が亡くなったことに感して大丈夫?気持ち的にはどう?と聞かれ心に穴が空いたというか、ぽっかりじゃなくて心に沢山小さな隙間ができたみたいです。と答えた。あの感覚はまだなんとなく覚えている。

心の中にいくつもの小さな隙間出来てそこを風が通ってるような感じだった。



私が中学生の頃辺りから、やがて父の説教、喧嘩という名の肉体的暴力が減った。その代わりに言葉の暴力が私の心に突き刺さるようになった。

その頃から父の説教は私の人格を否定するものだった。いや、その前からだったかもしれないがその頃から私の私の心に突き刺さるようになった。

その事によって、私は、私なんていない方がいいと思い自室のベッドに逃げ込んて泣いた。泣きながら私はいない方がいいんだとベッドにあったゲーム機や携帯の充電器で首を絞める。

そんなことを何度やっただろう。全て死ぬ前にあっ・・・あのアニメの続きが気になる。それ見てから死のうとか、あっ、今度あのバンドのライブに行くんだった行ってから死のうなんて思い死ぬのを先延ばしにして、途中でやめた。

そんなことを何度しただろう。もう数え切れない。

それは、私が社会人になるまで続いた。


父親に死んでやる!私なんかいない方がいいんだろと言ったこともあった。父親は死ねるなら死ねば的な感じだった。そう言われると死ねるんだ!死ねないと思ってる父親に思い知らせてやる!と思って首をも締めたことも何度かある。

高校生の時に父親に思い知らさせるために学校を休んで今日、死ぬぞ!とした日もある。結局死ねなかったが。
その日は私の小学校からの学生生活で唯一のずる休みをした日だ。


社会人になって少しして彼氏が出来た。前にブログで少しだけ触れた元彼だ。
死にたがりだった私は彼に依存した。依存することによって死にたい気持ちを消していた。生きたいと思えた。こんな感情は初めてだった。

でも、何度も彼と喧嘩をし喧嘩の度に彼に振られた。そうする度に依存先としていた支えが消え、自殺未遂をした。


やがて彼に本当に振られ、完璧に病みまくった。もう、朝起きたら泣いて泣き疲れて寝て起きて泣いて、また泣き疲れて寝てそんなのを繰り返す日々だった。こんな状態だ、もちろん仕事にもいけなくなった。


数日後触れてなかったスマホの画面をつけると彼から心配するLINEが来ていた。彼はまだ私のことが好きならしかった。

でも、付き合うという選択肢はこの時は二人共なかった。私はもう彼を信頼できなくなっていたし、彼は彼で病んでる私を支える自信が無いからと。

そのままなんとなく連絡が続いたが私から送ることは次第に減った。

そのうち彼からも連絡が来ることは減った。

そんなある日の事だった。彼からもう1度、付き合いたいとLINEで言われた。なんて都合のいいやつなんだ。
その時には私は彼が一度行った「鬱は支えれない」発言により私は、「あっ、こいつはこの程度なんだ。私は何があろうと支え合いながらと思ってたけどこの人とじゃ無理だ」と思い始め次第に冷めていった時のことだった。
だから振った。

後日、また彼からやっぱり付き合いたいと言うので長ったらしく理由を書き連ねて振った。

それでも付き合いたがってたが私はもう寝る時間だったので寝ると打ってそれから今のところ連絡は来ない。まだ好きな気持ちはあるがこれでいいのだろう。2年と数ヶ月続いた関係はこのまま断ち切れるといいなと思っている。


彼と付き合ってる頃に一緒に暮らしていた祖父が亡くなった。末期の癌だった。祖父の癌は進行のとても早いもので癌が発覚した当初は一ヶ月持つかどうかだと言われていた。だけど別の癌専門の病院に行きそれから祖父は何年間か生きた。最後のころ、もうそろそろ亡くなると分かって見舞いに2度ほど行ったけどあまり感情は湧いてこなかった。それでも顔が見たい。という気持ちだけで見舞いに行った。

祖父のお葬式には私と弟が祖父に対しての手紙を書き、読めと命じられた。
しかし、私は手紙なんて書けなかった。立派な手紙をかけた弟に対して私は3行だ。短すぎる何度も考えて考えて何とか文書にした。ちゃんとした手紙をかけた。

しかし、この時の私は、祖父が亡くなっているにも関わらず何の感情もなかった。今思えば感情を押し殺してただけなのかとしれない。今となっては正確な答えなど分からないが。

祖父の葬式当日、私が手紙を読む時が来た。マイクの前にたった瞬間今まで泣かなかったのに急に涙が溢れ出た。喋ることは不可能な程に。先に手紙を読むはずだった私を見て弟が察してくれたのか先に手紙を読んだ。
さて、もう、私が手紙を読むしかない。泣きながら上手く喋れないなりに手紙を読んだ。

正直、あの時の涙の意味を私自身分かってなかった。なぜ泣いてるのかもわからないが涙が止まらなかった。


仕事に行けなくなってメンタルが少し落ち着いて来てから祖父の事を思い出した。亡くなった当時より今のが亡くなったことが悲しい。祖父がいない事が辛い。大好きだったんだと今更ながらに思い知る。


そうやって私は生と死に触れてきた。今でも死にたくなる時もある。

それでも私は、生きる。生きるのだ。