あーたろのゆるりと。

日々のことやら伝えたいことやら

なんとなく

今日は、休職後、初出勤をしてまいりました。

とりあえず、2時間働けた。まさか、最初の出勤日が台風が近づいてすごい雨の日になるとは思ってもなかった。

行きはそこまで雨降ってなかったが帰りがどうなるか分からんし最初の出勤だしということで送り迎えを家族にしてもらった。

 

今の仕事内容は休職前とは全く違うので教えてもらうことだらけだ。

違う部署のお手伝いなので当たり前と言えば当たり前なのだけど。

 

 

帰宅してから何となく自分のブログを開いて細かく読む訳でもなく眺めてた。

 

私のブログ、長い記事多いなー、こんな長い記事よく読んでくださる人がいるなぁ有難い。何となくそんなことを思いながら眺めてた。

 

おっ、この記事はスターが多いなぁ有難いなぁ、なんて思ったり。

スターをつけてくださるってことにスターが多かろうと少なかろうと一つだろうと有難い。嬉しい。

 

感謝だ。ありがとうございます。

 

 

何となく文字を綴りたくてブログを書き始めたけど書くことがあまりない。

タブレットで文字を打つこの行為を綴るというのかは少し疑問だけど、まぁ気にしないでおこう。

気がつけば

 

気がつけばもう8月だ。早い。

 

予定ではリハビリ出勤という形で出勤を四日前から始めてるはずた。

でもまだしてない。

 

8/1から出勤、その前まで通勤リハビリをするように言われていたが最後の方に朝動けない日が続いて出来なくなっていた。無理すぎて働くとかもっと無理じゃね?となっていた。

 

会社にはもう1度主治医と話してどうするか報告すると母が伝えて、数日休んだ。

 

主治医と相談してできれば最初は午後からにしてもらおうということになった。

それを会社の人に言うとあっさりと良いですよ。午後だと何時からにします?と言われた。あっさりすぎて私と同席していた母はびっくりした。

 

そんな感じでこう週末までは通勤リハビリをして来週の午後から少しづつ働く予定だ。さて、上手くいくのであろうか。

 

 

会社の人は優しい人が多い。私を責める人はいない。たまたまあった人達は皆、

「あっ!あーたろさん!久しぶりですね、覚えてます?また働けるんですか?」とか

「待ってるからね」とかそういった声をかけてくれる。

 

本当に有難い。

 

会社の人達のためにも自分の為にも少しでも早く普通に働けるようになりたいな。

でも、焦りは禁物。ゆるりと自分のペースでやっていこう。

 

 

話は変わるけど噂のアを読んだ。

噂のア。アスペルガ・カノジョだ。

 

これは調子の良い時にしか読めない漫画だ。刺さる。でも、私の病気のヒントが隠れてる気がする。少しでも生きずらさを薄めるヒントが。

ニコニコに公開されてる分だけ読んだ。続きが読みたいのでTwitterをDM送ってフォローしようかと思ったがフォローするのはなんか違う気がした。だから辞めた。

 

ニコニコにまた公開すると書いてあったし公開してくれるのを待っていよう。

 

近況報告と掲載していただきました報告

 

 

 

 

いやー、お久しぶりの更新ですね。更新頻度が下がってしまって申し訳ない。

 

最近、色々とありましてね。

 

そんな訳で近況報告です。

 

希死念慮や鬱なんかと戦ったりしながら生きています。

 

そんな私ですが、今まで休職していた職場の休職期間がとっくに過ぎてたらしく、来月からリハビリ出勤という形で少しづつ出勤してくことになりました。

 

復帰するか、退職するかとても悩みました。最初に話聞いた時は正直悩んだというよりまだ、働くとか無理~退職する~って気持ちでした。

 

でも、主治医とお話してどうせ退職するならダメ元で挑戦してみたらと言われて「あっ!その手があったか!復帰しても辛くなったら辞めればいいんだ!」と思えるようになり、リハビリ出勤からしていくことになりました。

 

いやー、不安はありますよ。久々に働くんですし。それでも、休職して少し自信がついたのでちょっと挑戦してやるか。そんな気持ちです

 

 

今は、会社にリハビリ出勤の前に会社への往復だけ練習しといてと言われてるので往復だけしてます。今日は1日目だったこともあり診断書を渡してリハビリ出勤についても少し会社の人とお話して帰ってきました。

 

 

少し前に関東圏の親しい親戚の家巡りや上京してる友達や仲の良いフォロワーさんに合ったりしてたのでそれも自信に繋がったのが大きいと思ってます。

 

あと、最近、作曲を始めてみたりカメラにハマってみたりそれなりにやりたいことが分かるようになってきてそれを実行してました。

 

 

さて、タイトルの次のこと。

掲載していただきました。

前にも言ってたメンヘラ.JP様にいくつか読者投稿していた記事を掲載していただきました。まとめての報告になりましたが報告させて頂きます。

 

イメージチェンジで気分転換 嫌いな自分をやり過ごす方法 – メンヘラ.jp

 

父に首を絞められ死を覚悟した記憶 「普通の家族」を夢見ていた私の思い出 – メンヘラ.jp

 

家族に理想を押し付けられた幼少期 心を押し殺して病んでしまった私の話 – メンヘラ.jp

 

menhera.jp←サイトのトップはこちら

 

以上三つを載せて頂きました。重めのタイトルですが書き方はなるべく重くないように書いたつもりです。内容がないようなので重くなってしまった所もありますが・・・。

 

編集していただき、掲載していただき、とても有難い気持ちです。

 

 

メンタルの形

 

最近、更新頻度がゆっくりしててそれでも見に来てくれてる方々がいて嬉しくも、申し訳なくなったりしてます。まぁ、ゆるりとなんてタイトルに付いてるぐらいのブログなのでゆるりとやっていきますね。

 

今日、ブログに書くことはタイトルの通りです。

 

メンタル、目に見えないものですね。それでもガラスのメンタル、豆腐メンタル、鋼のメンタルなんて比喩される事が良くあります。

どの比喩も実際にある物質や物での比喩になってますね。まぁ、わかりやすくするために当然と言えば当然なんですが。

 

そんな、メンタルの比喩について比喩されるものを形とてして皆もっているという前提を作り、それをもとに私は色々考えてみました。

 

人は個々に様々なメンタルをもっていると私は、思いました。

 

では、メンタルにはどのような形があるのでしょうか?

 

まずはら私の両親を例にして私の想像する私の家族のメンタルの形について、話していこうかと思います。

 

父のメンタル。

これはよく聞く鋼のメンタルだと私は、想像しています。

傷つきにくく、壊れにくい。父の場合はそれに付け加えてある程度のことならパンチをしてメンタルに傷つけようとするものを吹っ飛ばす機能も、もしかしたら付いてるかもしれない。

凄いですね、これはどう考えても強いです。

 

 

父ときたら次に出てくる両親はもちろん、母です。

 

母のメンタルはスライムです。某有名ゲームのシリーズにもスライムがいますがそちらではなくて小学生の大好きなネバネバしたあのスライムです。

 

スライムの中でも母のメンタルはとても柔らかい方だと思っています。

何かの容器に入れたらぴったりフィット!中から出してあげれば自分の本来の形に元通り。1度引っ張て2つに分けてもまたこねこねすれば元通り。

 

傷ができても自然と時間と共にすんなり元通り。

 

攻撃されてもぶつかっても多少のものなら相手のスピードを落とさせゆっくりと包み込みかけ「ぽとっ」と言った感じで落として無力化するでしょう。

 

凄いですね、強いは強いでも父とは全く違った強さです。

 

そんな母はもちろん並大抵の事じゃ病みません。私なら病んでるだろうという経験を何度もしてる母ですが病みません。母の子ども時代の家庭環境は良くなかったと思います。それでも病むことがないのはメンタルがこの形をしてるからでしょう。

 

もし、私なら病むような悩み事や考え事があっても母はきっと病む前に考えて答えを出してしまいます。メンヘラの私からしたら羨ましいことこの上ないです。

 

さて、両親は強いメンタルでしたが他にも私は、色々なメンタルの形があると思っています。

 

最初によく聞く例えとして出したガラスや豆腐の形をしたメンタル。陶器のメンタル、プラスチックのメンタル、木材のメンタル、考え出したらたくさん出てきて止まることを知らなさそうです。

 

ガラスのメンタルは衝撃に弱いですね。ただ、一言でガラスのメンタルと言ってもガラスには種類があります。

 

例えばスマホに使われてる液晶のガラス。

iPhoneのガラスは衝撃によわく落とすとすぐに割れるとよく聞きますね。実際に画面バキバキなのをよく見ます。

Androidによく使われてるゴリラガラスというもの。これは衝撃につよく、落としてもひび割れにくくなっています。しかし、その代わりにと言っては何ですが砂等の細かいもので表面を擦ると傷がつきやすいそうです。

 

他にもガラスと言っても色々な形、厚さのものがありますね。

 

さて、豆腐の形をしたメンタル。

こちらはこちらで色々な種類があります。絹豆腐や木綿豆腐、高野豆腐、一言で豆腐と言っても一つではないですね。

 

こんなに長ったらしくメンタルの思い浮かぶ形を言ってますが、じゃぁ、あーたろのメンタルの形は?と聞かれればその答えはもう、出てます。

 

私のメンタルの形は陶器です。陶器とは言っても今現在の私の陶器の形をしたメンタルはボロボロに砕け散ってます。そこはお薬や通院などで修正の最中です。

 

私の陶器メンタルは、きっと幼い頃から、下手すると生まれた時からひび割れていき沢山のひびを蓄積して、時折少し欠けたりをして、それでも何とか形を保っていました。ひびだらけになった陶器にある時、小さな衝撃が有りました。それによって今まで何とか形を保っていたひびだらけの陶器はある時、ほんの小さな衝撃がありました。それによってかたちを保てなくなりました。

この衝撃が無くともいつかはこのひびだらけの陶器のメンタルはボロボロに崩れ落ちていたのだと思います。

 

 

さてさて、長々しく語ってきましたがこれを読んで貴方は何を感じましたか?あなたのメンタルはどんな形で今、どんな状態何でしょうか?

 

私の希死念慮のひとつ。

 

 

喧嘩?をした。

 

私は、メンヘラを自覚するまで心を殺していきてきたので喧嘩や言い合いになることはあまり無かった。あまりと言うのは例外が2名ほどいるからだ。父と元彼。この2人だけはメンヘラを自覚する前に言い合いをしてきた。

 

喧嘩の経験が無さすぎて、喧嘩は分からないので喧嘩?にしとく。

この喧嘩?は最初は単なるすれちがいだっただろう。

 

そこから私が病んで死を考えたのが行けなかった。それでも死を考えないというのはわたしには難しいことだ。

 

気がついたら言われ慣れていた「死ね」という言葉。この言葉を散々言われてきたせいか分からないが私は、自分が生きていることを許せなくなったり死にたくなったり死ぬべきではと思えたりする。

その癖死ねてない自分には嫌になることが多い。

 

死にたいという言葉を発せないのは私にとって実行に移すしかない、自殺するしかないになってしまう。

 

本当はこの言葉が良くないと分かってる。それでも、この言葉以外にそうする方法は私には分からない。

 

死にたい。気がついたらずっとそばに居る言葉だ。

時には死ぬべきだという言葉も私のそばにくる。

時には私が生きてる事が酸素の無駄遣いをしてるようにも思えるし、時には私が生きてる事が私に関わる全員にとって良くないことに思える。

辞めてくれ。辛くなるだろ。

 

死にたい、死ぬべき、その言葉が嫌で仕方ないならフォロワーさん方皆さんにはフォローを外すなりブロックするなりしてくれ。それしか言えない。

 

死にたいと言う私を許してとは言わない。

嫌ってくれても構わない。ただ、私は死にたいの気持ちをうまく隠せない。頭の中がそれでいっぱいになってしまう。

 

苦しい。言いたくて言ってるわけじゃない。ただ出てきてしまう。

この言葉が人を傷つけることもあるのも知ってる。

それでも出てきてしまう。頭の中がそれでいっぱいになってしまうんだから。

 

嫌いになるなら嫌いになってくれて構わない。

私は、死にたいからの逃げ方をまだきちんと見つけれてない。

小林さんとガンというもの。

 

最近、ニュースで毎度のように取り上げられてる小林麻央さんの死。私は、心が辛くなりそうで今まで全く見ていませんでした。

 

今日の昼。と言うかつい先ほど、アッコにおまかせで淡々とただ事実を伝えるように私達は下手な言葉は言えないと言いながら報道してるので初めて小林麻央さんの死に関する報道をきちんと見ることが出来ました。

 

小林麻央さんのブログを紹介していて「病気の娘でごめん」「病気の母でごめん」「病気の妻でごめん」と書かれた記事の一文が心にグサッときました。

 

私は、癌ではないけど病気です。メンヘラなんて言葉を使うと軽く感じられるかもしれないけど病気です。家族にごめんなさいという気持ちは時折出てきます。そんな私の心にグサッと突き刺さりました。

 

 

さて、癌と聞くと私は、祖父を思い出します。祖父は癌でなくなりました。

 

先日、小林麻央さんの死を知った方が「癌ってこんなに早く死ぬの?」という発言をしてるのを耳にしました。癌でなくなった方が身近にいなければそんな感想も出てくるのかも知れません。

 

小林麻央さんの場合は、多分、報道される前から癌を発病しており、闘病してたと思います。その点もこんなに早くと思う理由の一つかも知れません。また、小林麻央さんは若いです。若いとガンの進行は早いです。なので余計に亡くなるのが早かったのかも知れません。

 

 

また、癌には種類があります。種類によって進行のスピードも違います。私の祖父は凄く進行の早い癌でした。癌が発覚した時にはもう、余命宣告をされました。一ヶ月です。当時、12月だったこともあり今年いっぱいまで生きられるのか分からないと伝えられました。

 

後になって家で「余命宣告一ヶ月の花嫁」という映画を見ていた時に余命宣告のシーンで「週単位で考えてください」と医師が言うシーンがあります。それを見て母は「おじいちゃんの最初の時も同じこといわれた。週単位で考えてくださいって言われた。」と言ってました。

 

祖父は余命宣告を受けて少したった頃、元々入院していた総合病院から癌専門の病院にうつりました。それからそこで入院し、たまーに医師から許可を貰い家に帰って来たりもして数年生きました。

 

私達家族はこう思いました。最初は余命一ヶ月なんて言われたのに、何年だ?数年、こんなにも生きれたんだもん。おじいちゃん凄いよ。いい病院にうつれてよかったね。と。

 

祖父が亡くなる前頃から常に病院に家族や親戚の誰かしらが泊まって誰かしらが病院にいる状態でした。

祖母は特に何度も泊まり、常に祖父を見てやりたいという気持ちだったのを当時社会人なりたての私でも伝わってきました。憎まれ口ばっかり言いつつもやっぱり最後は看取りたかったし、少しでも一緒に居たかったんでしょう。

 

ですが、何日もずっと病院で祖父を見つつ仕事もしていた祖母は倒れるんじゃないかと言うほど痩せており周りは心配で、祖父の調子が良さそうな時はなるべく他の人が祖父をみるようにしていました。

 

ある日の朝のことです。泊りがけで祖父の様子を見ていた叔父が祖父の様子を見て今日は、大丈夫そうだから母さん(祖母)は来なくても大事だよ。と病室を出て家に伝える電話をしてきました。これは今までもあった普通の光景でした。

 

でも、その日は一つ違うことがあったのです。電話をしてる最中に祖父の病態は急変して亡くなりました。

 

電話をかけに病室を出るまで祖父は元気だったと叔父は言います。

多分、叔父が1番辛いでしょう。大丈夫だと思って病室を出なければせめて、死に立ち会えた。祖母を呼ぶべきだったかもなどと自分を責めたと思います。

 

癌とはそんな病です。

さっきも言いましたが私達は家族の中では数年、生きれたんだ、祖父はすごい。そんな感じに思っております。

 

亡くなる時は人間必ずしも訪れます。祖父はそれがたまたま癌でした。正直に言って亡くなるにはまだ早いと言わたような年齢でした。それでも亡くなりました。

 

小林麻央さんと比べれば若くはないですが。

 

小林麻央さんのご冥福を祈ってこの記事はこれで締めさせていただきます。

 

 

私の家族という名の仮面。

一部、暴力表現、人格比定の表現があります。ご注意を。












私の家族は家族だ。れっきとした家族だ。


だけどそこに私は、入らない。私以外の家族が家族で私は入らない。

別に血が繋がってないとかそういう話じゃない。


家族の輪に、人間関係に、私は入れなかった。それだけだ。



私は母と父が結婚して1年後、産まれてる。つまり、結婚してすぐの時にできた。

両親は別にその時に子供が欲しいとはおもってなかったらしい。たまたま妊娠したから産んだらしい。



しかし、母は公務員一家の実家から自営業のこの家に嫁に来て一年しかたってない。実家と何もかも違う。日々の仕事、家事、そういった生活に慣れてなかった。それをこなすので精一杯のはたやすく想像がつく。


公務員はそれなりに働けば給料がでる。それなりに働けばしゅっせもまぁ、頑張ればできる。
だが、自営業は違う。お金が欲しければ欲しいだけ働かなくてはならない。週に1度ある休みの日はお出かけついでに仕入れや家で経理をする。
そうして働いてやっとお金が入るそこから人件費、電気代、来月の仕入れに使うお金その他もろもろが出ていく。真逆の職業だ。

母はよく「自営業は働けば働いただけお金が入る」という。しかし、そのお金は相当儲からない限りいくら働いても一般のサラリーマンの貰える額なんて手に入らない。だけど働かなければお金は当たり前だが入らない。
実家にいた時のギャップに慣れずにいた。


そんな時に子供が生まれた。
生まれたのはいが子供の面倒を見る余裕なんてあるわけない。私を寝かしつけてたのは近所に住みよく家に来てた来てる祖母の弟らしい。風呂は祖父がいれてた。

母の余裕のある時でも一緒に住む祖母が世話を見ててあまり母には面倒を見せてもらえなかったらしい。



さて、母の話をした後だし父の話をしよう。
父は男兄弟で家族の中に女は祖母しかいない。しかも、その祖母の性格や性質的なものは男っぽい。と言うか漢とかいておとこと読むタイプだ。

そんな家庭で父は長男として生まれた。昔の田舎の長男といえば後継として甘やかされつつ大事に大事に育てるものだ。父もその例外ではない。そのおかげで自分の言う、思うことが主に家や親戚の中で通じなかったり言うことを聞かないと気に入らない性格に育ってしまった。

外面は良いらしので外では上手くやっているのだろうが。



実質的には男しかいない家庭で大切にされ育った父だ。そんな中に女の私が生まれた。接し方もわからなければ育て方なんて分かるわけが無い。故に父の選んだ選択は私を放置するだ。


しかも、私の父、家族の集まる夜にいないことが多かった。いる日のが希だ。その上、うちの家は近所の人がよく家に来てた。父より夜、家にくるおじさんがいたぐらいだ。
チャイムを鳴らさずに入ってくる親戚の人もいた。その人はうちの冷蔵庫から普通にアイスとか出して食べていた。(今思えばアイツ、ひとの家なにしんてんだっ!って感じだ。)

今思えばそんな父に対する幼い私のイメージは、なんかよく私の家で昼寝してる「お父さんというあだ名の近所の人」だった。家族と認識すら出来てなかった。当時、同居してた叔父の方が家族と認識出来てた。


しかし、そんな父でも親だ。親は子供が悪いことしたら怒らなければとは思っていたのだろう。しかし、私は、素直に1度で言う事聞けない子だった。父は1度で言うこと聞かないやつには体に覚えさせるしかないという思考回路だ。
つまり、1度の注意で言う事を聞けない私には、父から怒られる度に暴力が伴った。それが虐待なのかは分からない。分からないけれどそんなことは今は関係ないので置いておこう。


うちは祖母、祖父も同居してる。いわゆる三世帯同居とやらだ。

ちなみに叔父も同居してる。してた時期としてない時期とあるが今回はそんなことはどうでもよいとしよう。ややこしいのでね。


そして、うちの父と母と祖母は自営業を営んでいる。
祖父はなんか、企業してその会社?を大きく成長させていた。(祖父は凄い、尊敬する。)
叔父は当時、一般の会社で働きながら自由にしてたからよく知らない。
サービス業の家族の土日は忙しく私は、よく母方の実家に預けられていた。
他にも親戚と旅行したりしたりしてらしい。家族旅行はしたことない。



そんな中に誰が家族で誰が家族か分からないような環境に私はいた。

一番家族の集まる夕食の時間に話されることは仕事の事と知らない親や祖母たちの知り合いの話だ。私には分からない話だ。(夕食時出なくてもこの家族はそんな会話が殆どだ。)

夕食時はテレビが流れてたので興味あるなしに関係なくただそれを見ながらご飯を食べていた。

この時点で私は家族に入れてないと感じてたのかもしれない。
感じてなかった場合は家族を家族として認識できてなくて家族という名の他人の集まりと考えてかもしれない。その辺は幼い頃のことなので覚えてない。



そんな生活の中、私が保育園に上がる頃に弟が生まれた。
弟は今となっては超の付くような野球バカの坊主だが当時は可愛らしかった。

私の遊びで着ていた玩具のドレスやスカートを僕も着たい!という程にだ。フリフリのエプロンを着てぶりっ子なポーズをしている写真も残っている。

そんな弟が生まれた頃だろうか少し大きくなってからだろうか。祖父が定年退職をした。
弟は私と違い祖父にきちんと面倒を見てもらっていた。祖父を通じて弟は家族の中へと入っていった。


私は入れなかった家族の中にすんなりと。そして弟が野球を始めると父が弟の野球について行くようになり、弟は次第にみんなと家族になった。


私の剣道は練習だろうと稽古だろうと誰もついてきてくれないのに・・・と正直嫉妬していた。


父は言う。「弟が野球を始めて俺は父親になれたのだ」と。
まるで、私の父親にもなったような言い方だ。でも、内心、お前がなったのは弟の父親だけで私の父親には未だになれてねーからななんて思ったりする。


私が中学の頃私には反抗期があった。正直荒れていた。幼なじみ達と比べればマシかもしれないがそれでも荒れていた。その事により家族は私の機嫌を伺うようになった。

正直それが嫌な気持ちもあったが言えずに心に隠していた。


祖父が亡くなって数年、弟がいる野球のために家を出て数年、私は、病みに病んで今までためてたものを爆発させた。家族に思ってたこともいくつか伝えた。家族の考えは少しは変わったようだ。 
あれから、あと数ヶ月で一年になる。


お互いに歩み寄ろうとしてるとは思う。


私は今、家族に入れてるだろうか。これから仮面のない家族になれるだろうか。