あーたろのゆるりと。

日々のことやら伝えたいことやら

小林さんとガンというもの。

 

最近、ニュースで毎度のように取り上げられてる小林麻央さんの死。私は、心が辛くなりそうで今まで全く見ていませんでした。

 

今日の昼。と言うかつい先ほど、アッコにおまかせで淡々とただ事実を伝えるように私達は下手な言葉は言えないと言いながら報道してるので初めて小林麻央さんの死に関する報道をきちんと見ることが出来ました。

 

小林麻央さんのブログを紹介していて「病気の娘でごめん」「病気の母でごめん」「病気の妻でごめん」と書かれた記事の一文が心にグサッときました。

 

私は、癌ではないけど病気です。メンヘラなんて言葉を使うと軽く感じられるかもしれないけど病気です。家族にごめんなさいという気持ちは時折出てきます。そんな私の心にグサッと突き刺さりました。

 

 

さて、癌と聞くと私は、祖父を思い出します。祖父は癌でなくなりました。

 

先日、小林麻央さんの死を知った方が「癌ってこんなに早く死ぬの?」という発言をしてるのを耳にしました。癌でなくなった方が身近にいなければそんな感想も出てくるのかも知れません。

 

小林麻央さんの場合は、多分、報道される前から癌を発病しており、闘病してたと思います。その点もこんなに早くと思う理由の一つかも知れません。また、小林麻央さんは若いです。若いとガンの進行は早いです。なので余計に亡くなるのが早かったのかも知れません。

 

 

また、癌には種類があります。種類によって進行のスピードも違います。私の祖父は凄く進行の早い癌でした。癌が発覚した時にはもう、余命宣告をされました。一ヶ月です。当時、12月だったこともあり今年いっぱいまで生きられるのか分からないと伝えられました。

 

後になって家で「余命宣告一ヶ月の花嫁」という映画を見ていた時に余命宣告のシーンで「週単位で考えてください」と医師が言うシーンがあります。それを見て母は「おじいちゃんの最初の時も同じこといわれた。週単位で考えてくださいって言われた。」と言ってました。

 

祖父は余命宣告を受けて少したった頃、元々入院していた総合病院から癌専門の病院にうつりました。それからそこで入院し、たまーに医師から許可を貰い家に帰って来たりもして数年生きました。

 

私達家族はこう思いました。最初は余命一ヶ月なんて言われたのに、何年だ?数年、こんなにも生きれたんだもん。おじいちゃん凄いよ。いい病院にうつれてよかったね。と。

 

祖父が亡くなる前頃から常に病院に家族や親戚の誰かしらが泊まって誰かしらが病院にいる状態でした。

祖母は特に何度も泊まり、常に祖父を見てやりたいという気持ちだったのを当時社会人なりたての私でも伝わってきました。憎まれ口ばっかり言いつつもやっぱり最後は看取りたかったし、少しでも一緒に居たかったんでしょう。

 

ですが、何日もずっと病院で祖父を見つつ仕事もしていた祖母は倒れるんじゃないかと言うほど痩せており周りは心配で、祖父の調子が良さそうな時はなるべく他の人が祖父をみるようにしていました。

 

ある日の朝のことです。泊りがけで祖父の様子を見ていた叔父が祖父の様子を見て今日は、大丈夫そうだから母さん(祖母)は来なくても大事だよ。と病室を出て家に伝える電話をしてきました。これは今までもあった普通の光景でした。

 

でも、その日は一つ違うことがあったのです。電話をしてる最中に祖父の病態は急変して亡くなりました。

 

電話をかけに病室を出るまで祖父は元気だったと叔父は言います。

多分、叔父が1番辛いでしょう。大丈夫だと思って病室を出なければせめて、死に立ち会えた。祖母を呼ぶべきだったかもなどと自分を責めたと思います。

 

癌とはそんな病です。

さっきも言いましたが私達は家族の中では数年、生きれたんだ、祖父はすごい。そんな感じに思っております。

 

亡くなる時は人間必ずしも訪れます。祖父はそれがたまたま癌でした。正直に言って亡くなるにはまだ早いと言わたような年齢でした。それでも亡くなりました。

 

小林麻央さんと比べれば若くはないですが。

 

小林麻央さんのご冥福を祈ってこの記事はこれで締めさせていただきます。

 

 

私の家族という名の仮面。

一部、暴力表現、人格比定の表現があります。ご注意を。












私の家族は家族だ。れっきとした家族だ。


だけどそこに私は、入らない。私以外の家族が家族で私は入らない。

別に血が繋がってないとかそういう話じゃない。


家族の輪に、人間関係に、私は入れなかった。それだけだ。



私は母と父が結婚して1年後、産まれてる。つまり、結婚してすぐの時にできた。

両親は別にその時に子供が欲しいとはおもってなかったらしい。たまたま妊娠したから産んだらしい。



しかし、母は公務員一家の実家から自営業のこの家に嫁に来て一年しかたってない。実家と何もかも違う。日々の仕事、家事、そういった生活に慣れてなかった。それをこなすので精一杯のはたやすく想像がつく。


公務員はそれなりに働けば給料がでる。それなりに働けばしゅっせもまぁ、頑張ればできる。
だが、自営業は違う。お金が欲しければ欲しいだけ働かなくてはならない。週に1度ある休みの日はお出かけついでに仕入れや家で経理をする。
そうして働いてやっとお金が入るそこから人件費、電気代、来月の仕入れに使うお金その他もろもろが出ていく。真逆の職業だ。

母はよく「自営業は働けば働いただけお金が入る」という。しかし、そのお金は相当儲からない限りいくら働いても一般のサラリーマンの貰える額なんて手に入らない。だけど働かなければお金は当たり前だが入らない。
実家にいた時のギャップに慣れずにいた。


そんな時に子供が生まれた。
生まれたのはいが子供の面倒を見る余裕なんてあるわけない。私を寝かしつけてたのは近所に住みよく家に来てた来てる祖母の弟らしい。風呂は祖父がいれてた。

母の余裕のある時でも一緒に住む祖母が世話を見ててあまり母には面倒を見せてもらえなかったらしい。



さて、母の話をした後だし父の話をしよう。
父は男兄弟で家族の中に女は祖母しかいない。しかも、その祖母の性格や性質的なものは男っぽい。と言うか漢とかいておとこと読むタイプだ。

そんな家庭で父は長男として生まれた。昔の田舎の長男といえば後継として甘やかされつつ大事に大事に育てるものだ。父もその例外ではない。そのおかげで自分の言う、思うことが主に家や親戚の中で通じなかったり言うことを聞かないと気に入らない性格に育ってしまった。

外面は良いらしので外では上手くやっているのだろうが。



実質的には男しかいない家庭で大切にされ育った父だ。そんな中に女の私が生まれた。接し方もわからなければ育て方なんて分かるわけが無い。故に父の選んだ選択は私を放置するだ。


しかも、私の父、家族の集まる夜にいないことが多かった。いる日のが希だ。その上、うちの家は近所の人がよく家に来てた。父より夜、家にくるおじさんがいたぐらいだ。
チャイムを鳴らさずに入ってくる親戚の人もいた。その人はうちの冷蔵庫から普通にアイスとか出して食べていた。(今思えばアイツ、ひとの家なにしんてんだっ!って感じだ。)

今思えばそんな父に対する幼い私のイメージは、なんかよく私の家で昼寝してる「お父さんというあだ名の近所の人」だった。家族と認識すら出来てなかった。当時、同居してた叔父の方が家族と認識出来てた。


しかし、そんな父でも親だ。親は子供が悪いことしたら怒らなければとは思っていたのだろう。しかし、私は、素直に1度で言う事聞けない子だった。父は1度で言うこと聞かないやつには体に覚えさせるしかないという思考回路だ。
つまり、1度の注意で言う事を聞けない私には、父から怒られる度に暴力が伴った。それが虐待なのかは分からない。分からないけれどそんなことは今は関係ないので置いておこう。


うちは祖母、祖父も同居してる。いわゆる三世帯同居とやらだ。

ちなみに叔父も同居してる。してた時期としてない時期とあるが今回はそんなことはどうでもよいとしよう。ややこしいのでね。


そして、うちの父と母と祖母は自営業を営んでいる。
祖父はなんか、企業してその会社?を大きく成長させていた。(祖父は凄い、尊敬する。)
叔父は当時、一般の会社で働きながら自由にしてたからよく知らない。
サービス業の家族の土日は忙しく私は、よく母方の実家に預けられていた。
他にも親戚と旅行したりしたりしてらしい。家族旅行はしたことない。



そんな中に誰が家族で誰が家族か分からないような環境に私はいた。

一番家族の集まる夕食の時間に話されることは仕事の事と知らない親や祖母たちの知り合いの話だ。私には分からない話だ。(夕食時出なくてもこの家族はそんな会話が殆どだ。)

夕食時はテレビが流れてたので興味あるなしに関係なくただそれを見ながらご飯を食べていた。

この時点で私は家族に入れてないと感じてたのかもしれない。
感じてなかった場合は家族を家族として認識できてなくて家族という名の他人の集まりと考えてかもしれない。その辺は幼い頃のことなので覚えてない。



そんな生活の中、私が保育園に上がる頃に弟が生まれた。
弟は今となっては超の付くような野球バカの坊主だが当時は可愛らしかった。

私の遊びで着ていた玩具のドレスやスカートを僕も着たい!という程にだ。フリフリのエプロンを着てぶりっ子なポーズをしている写真も残っている。

そんな弟が生まれた頃だろうか少し大きくなってからだろうか。祖父が定年退職をした。
弟は私と違い祖父にきちんと面倒を見てもらっていた。祖父を通じて弟は家族の中へと入っていった。


私は入れなかった家族の中にすんなりと。そして弟が野球を始めると父が弟の野球について行くようになり、弟は次第にみんなと家族になった。


私の剣道は練習だろうと稽古だろうと誰もついてきてくれないのに・・・と正直嫉妬していた。


父は言う。「弟が野球を始めて俺は父親になれたのだ」と。
まるで、私の父親にもなったような言い方だ。でも、内心、お前がなったのは弟の父親だけで私の父親には未だになれてねーからななんて思ったりする。


私が中学の頃私には反抗期があった。正直荒れていた。幼なじみ達と比べればマシかもしれないがそれでも荒れていた。その事により家族は私の機嫌を伺うようになった。

正直それが嫌な気持ちもあったが言えずに心に隠していた。


祖父が亡くなって数年、弟がいる野球のために家を出て数年、私は、病みに病んで今までためてたものを爆発させた。家族に思ってたこともいくつか伝えた。家族の考えは少しは変わったようだ。 
あれから、あと数ヶ月で一年になる。


お互いに歩み寄ろうとしてるとは思う。


私は今、家族に入れてるだろうか。これから仮面のない家族になれるだろうか。

生と死に触れてそれでも私は生きる。

自殺未遂(?)や自傷行為ととれる内容があります。虐待とも取れる内容もあります。
苦手な方はご注意ください。




私が、生き物の死に初めて触れたのはいつだろうか・・・
きっと記憶もない幼い頃だろう。その死はその辺にいる虫か何かのものだろう。


では、人間の死に初めて触れたのはいつだろう。
小学校低学年だったかな?それとも保育園の頃だっただろうか?
曖昧だ。まぁ、それぐらいの頃に、ひいおばあちゃんが死んだ時のお葬式だろう。


その時は死がなにかまだよくわかって無くてないて何でおばあちゃんはこの箱(棺桶)の中で寝ててお花をたくさん入れるんだろ?とか考えたり泣いてる母を不思議そうに眺めてた記憶がある。



次に人の死に接したのはひいおじいちゃんが亡くなった時だった。確か小学生低学年か中学年ぐらいの時だ。
その時はどうやって亡くなったのかも聞いたし死への理解もあったのでそんなに周りを不思議に思ったりはしなかった。



ひいおじいちゃんが、亡くなった頃からだろうか、私が死にたいと思い始めたのは。
多分、3年生ぐらいだった思う。(ひいおじいちゃんが亡くなった時がいつかはとても曖昧だがこれはなんとく覚えてる)
なぜ当時、死にないと思ったのかは覚えてない



小学生の頃は死にたいと思っても自殺する方法が首吊りと飛び降り自殺ぐらいしか思いつかなかった。
首吊りは足のつかない高さにどうやってやったらいいのか当時の私は分からなかった。

飛び降りは私の住む地元が田舎なことをあり2階建て以上の建物というものがそもそも無く、この高さじゃ飛び降りても死ねないなとぼんやりと思っていた。

地元から出て飛び降りをすることを考えたが高所恐怖症の私じゃ上手く飛び降りれず失敗しそうだなと思ってしなかった。



中学生の頃、小学校から仲良かった友達が交通事故で亡くなった。
お葬式は平日で学校があったため行かせてもらえなかった。行きたかったが仕方ない。
その変わりと言ってはなんだが通夜に言った。棺桶に入ってる彼女を見て涙が止まらなくなった。1人では動けなくなるほど泣いた。ほかの友達の親が支えてくれて何とか入口の広場まで行った。私はひたすら泣いていた。

でも、次の日から友達が亡くなったことを嘘のように思えた。また、学校に行ったらいつものようにあの子がいて笑顔なんじゃないかと、明日にはいるんじゃないかなんてことをたまたま登校中に会った友達と話をしたのを覚えている。
スクールカウンセラーに友達が亡くなったことに感して大丈夫?気持ち的にはどう?と聞かれ心に穴が空いたというか、ぽっかりじゃなくて心に沢山小さな隙間ができたみたいです。と答えた。あの感覚はまだなんとなく覚えている。

心の中にいくつもの小さな隙間出来てそこを風が通ってるような感じだった。



私が中学生の頃辺りから、やがて父の説教、喧嘩という名の肉体的暴力が減った。その代わりに言葉の暴力が私の心に突き刺さるようになった。

その頃から父の説教は私の人格を否定するものだった。いや、その前からだったかもしれないがその頃から私の私の心に突き刺さるようになった。

その事によって、私は、私なんていない方がいいと思い自室のベッドに逃げ込んて泣いた。泣きながら私はいない方がいいんだとベッドにあったゲーム機や携帯の充電器で首を絞める。

そんなことを何度やっただろう。全て死ぬ前にあっ・・・あのアニメの続きが気になる。それ見てから死のうとか、あっ、今度あのバンドのライブに行くんだった行ってから死のうなんて思い死ぬのを先延ばしにして、途中でやめた。

そんなことを何度しただろう。もう数え切れない。

それは、私が社会人になるまで続いた。


父親に死んでやる!私なんかいない方がいいんだろと言ったこともあった。父親は死ねるなら死ねば的な感じだった。そう言われると死ねるんだ!死ねないと思ってる父親に思い知らせてやる!と思って首をも締めたことも何度かある。

高校生の時に父親に思い知らさせるために学校を休んで今日、死ぬぞ!とした日もある。結局死ねなかったが。
その日は私の小学校からの学生生活で唯一のずる休みをした日だ。


社会人になって少しして彼氏が出来た。前にブログで少しだけ触れた元彼だ。
死にたがりだった私は彼に依存した。依存することによって死にたい気持ちを消していた。生きたいと思えた。こんな感情は初めてだった。

でも、何度も彼と喧嘩をし喧嘩の度に彼に振られた。そうする度に依存先としていた支えが消え、自殺未遂をした。


やがて彼に本当に振られ、完璧に病みまくった。もう、朝起きたら泣いて泣き疲れて寝て起きて泣いて、また泣き疲れて寝てそんなのを繰り返す日々だった。こんな状態だ、もちろん仕事にもいけなくなった。


数日後触れてなかったスマホの画面をつけると彼から心配するLINEが来ていた。彼はまだ私のことが好きならしかった。

でも、付き合うという選択肢はこの時は二人共なかった。私はもう彼を信頼できなくなっていたし、彼は彼で病んでる私を支える自信が無いからと。

そのままなんとなく連絡が続いたが私から送ることは次第に減った。

そのうち彼からも連絡が来ることは減った。

そんなある日の事だった。彼からもう1度、付き合いたいとLINEで言われた。なんて都合のいいやつなんだ。
その時には私は彼が一度行った「鬱は支えれない」発言により私は、「あっ、こいつはこの程度なんだ。私は何があろうと支え合いながらと思ってたけどこの人とじゃ無理だ」と思い始め次第に冷めていった時のことだった。
だから振った。

後日、また彼からやっぱり付き合いたいと言うので長ったらしく理由を書き連ねて振った。

それでも付き合いたがってたが私はもう寝る時間だったので寝ると打ってそれから今のところ連絡は来ない。まだ好きな気持ちはあるがこれでいいのだろう。2年と数ヶ月続いた関係はこのまま断ち切れるといいなと思っている。


彼と付き合ってる頃に一緒に暮らしていた祖父が亡くなった。末期の癌だった。祖父の癌は進行のとても早いもので癌が発覚した当初は一ヶ月持つかどうかだと言われていた。だけど別の癌専門の病院に行きそれから祖父は何年間か生きた。最後のころ、もうそろそろ亡くなると分かって見舞いに2度ほど行ったけどあまり感情は湧いてこなかった。それでも顔が見たい。という気持ちだけで見舞いに行った。

祖父のお葬式には私と弟が祖父に対しての手紙を書き、読めと命じられた。
しかし、私は手紙なんて書けなかった。立派な手紙をかけた弟に対して私は3行だ。短すぎる何度も考えて考えて何とか文書にした。ちゃんとした手紙をかけた。

しかし、この時の私は、祖父が亡くなっているにも関わらず何の感情もなかった。今思えば感情を押し殺してただけなのかとしれない。今となっては正確な答えなど分からないが。

祖父の葬式当日、私が手紙を読む時が来た。マイクの前にたった瞬間今まで泣かなかったのに急に涙が溢れ出た。喋ることは不可能な程に。先に手紙を読むはずだった私を見て弟が察してくれたのか先に手紙を読んだ。
さて、もう、私が手紙を読むしかない。泣きながら上手く喋れないなりに手紙を読んだ。

正直、あの時の涙の意味を私自身分かってなかった。なぜ泣いてるのかもわからないが涙が止まらなかった。


仕事に行けなくなってメンタルが少し落ち着いて来てから祖父の事を思い出した。亡くなった当時より今のが亡くなったことが悲しい。祖父がいない事が辛い。大好きだったんだと今更ながらに思い知る。


そうやって私は生と死に触れてきた。今でも死にたくなる時もある。

それでも私は、生きる。生きるのだ。

アプリケーション

今日はふたつほどタブレットにアプリを入れてみた。それの紹介とほぼ毎日やってるゲームアプリを一つ紹介してみよう。

 

まずは今日、タブレットにいれたアプリの紹介から行こう。

 

1つは「Wi-Fiミレル」。

その名の通りWi-Fiが見える。混み具合だとか電波の強さだとかそういったものが細かくグラフ化や数値化されてて、目で見ることが出来る。結構便利だ。

 

また、Wi-Fiを捕まえやすくなるらしい。

これはまだよく分からないが効果が出てくれるといいなとおもっている。

何せ私の自室はWi-Fiが少々弱めであり、タブレットさんがどうやらWi-Fiを掴んだりするのが苦手ならしく自室にいるとWi-Fiがとても不安定だ。Wi-Fiでしか使用出来ないタブレットなのでWi-Fiを安定してつかみ続けてほしいものである。

 

 

今日いれたアプリ、2つ目は「ストレススキャン ストレス測定アプリの決定版!」とかなんとか言うものらしい。

どこまでがアプリ名なのか不明だ。アプリストアでは上記のようにアプリ名が書かれてたが、インストールしたところ、アプリ名は「ストレス測定」になってる。まぁ、ストアとインストール後のアプリ名が違うのはよくある事だ。

ストアでの名前が凄い。自信に満ち溢れてる。その自信少し分けておくれよ。

 

何でも、カメラに指を付けておくことで静脈を測りストレスを数値化させるものらしい。まだ、1度しかやってないがストレスってメンタルにとても関わってくるし半分ひやかし、半分ご参考程度に見ることにしようかと思う。

 

ストレスってなかなか気づけない人多いと思うしこのアプリは良い気がする。

ちなみにストアにはiPhoneで150万ダウンロードのAndroid版と書かれていた。それなりに使ってる人はいるようだ。

 

 

さて、今度は私がほぼ毎日やっているスマホゲーの紹介だ。私がこのゲームをやっている理由はゲームだから、面白いからと言った理由だけではなく自尊心育成に役立っているからというのもある。

 

おっと、アプリ名を紹介し忘れた。「TOWDOT」という名前だ。ドットを繋げて消すという簡単なパズルゲームだ。

 

何故、このゲームが自尊心育成に役立っているかというと、このゲーム、凄い褒めてくる。ゲームをクリアする度に

「凄い!」「天才!」「驚異的!」

なんて褒め方をしてきやがる。褒められるのに慣れてない私は、大袈裟すぎwwと初めは思っていたが何故かやっていくうちに褒められる言葉を受け入れれるようになった。

 

クリア出来なくても、「惜しかったね。もうちょっと!」といつ言われるので出来ないことをそんなに責めずに済む。おかげでそうだな、ここまでいけた惜しかったなぁ。と思える。

 

あと、このアプリのライフは失敗すると減るので失敗続きでイライラしたり落ち込みそうな時は残りのライフでひたすらレベルの低いのを私はやる。レベルの低いのでクリアをしまくる。

そんなアプリが今の育成中の私の自尊心の育成の手助けをしてくれてる。

 

 

おっと、紹介するつもりは無かったがついでに「頭痛ーる」も紹介しとこう。

頭痛ーるさんは、気圧の低下を教えてくれるアプリだ。ついでに天気予報もついてる。

偏頭痛にはもちろん、花粉症やメンタルが不安定になる、なてことも気圧が下がるとあるのでこのアプリも重宝してる。

 

原因不明で病んだ時はこのアプリを開いて気圧が低下してたら気圧のせいにすることで心が少し軽くなっている。

 

以上、アプリ紹介でしたー!

タイトルはタイトルです

ディズニーの映画、美女と野獣を見てきました。


途中、何度か、感動で涙腺潤みましたし感想もいろいろありますがそんなことはこのブログで書く必要性を感じないので省略で。



映画の後、エンディングの前の歌で泣きました。
泣いたと言うか、すっと涙が流れた。

歌は愛の歌的な感じだった。なぜ私が泣いたのか、その涙が何なのか、それは分からなかった。今も分からなかった。

ただ、物語を見て感動して出る涙ではないと感じた。


こんな感覚は初めてだった。


この涙の意味を分かる日は私には来るのだろうか?それともこの涙を忘れるだろうか。未来のことは分からない。ただ、それを何となくブログに書きたくなった。


それと、劇中だかエンディングだか忘れたが一瞬が続けば永遠に続くなる的な歌詞のある歌があった。

それを聞いてplentyのスローモーションピクチャーという曲のタイトルを思い出した。曲名は作詞した江沼さんの造語だとなんかのインタビューで答えてた気がする。


人生がスローモーションピクチャーになるような、一瞬、一瞬が繋がった時間になるような、そんなんならいいななんて事を思った。
でも、直ぐに気持ちが変わった。人生はスローモーションピクチャのようにそこまでゆっくりにはなってくれないなと、そんな風に思った。





今回のブログのタイトルは思いつかなかったのでタイトルはタイトルだな!と思ってタイトルはタイトルですになりました。

嬉しき有難いこと。

最近、ブログ読んでるよとか読みやすくて好きだよとか言ってくれる人がたまにいる。

 

ブログを書くと☆をつけてくれる人がいる。

 

それがとても嬉しくて、とても有難い。

 

こんな私なんかが一方的に書いてるブログでそんなことを言ってくださるなんて・・・

そんな気持ちになる。

 

こんな私としいうのはどうやら自虐になるらしい。でも、褒められた経験もほとんど無ければ得意なこともない勉強も運動も苦手だ。そんな人間の私にはこんな私としか思えない。

 

でも、そんな私の書いた文を、ブログを読んでくださってる。褒めてくださってる。☆をつけて下さってる。とても嬉しく、とても有難い。

 

読みやすいなんて言われると驚く。ゆるりとなんてタイトルをしてるが正直、内容はゆるりとどころか重たいものが多いだろう。そんな文字の羅列を、このブログを読みやすいと言ってくださる。とても嬉しく、とても有難い。

 

 

有難いとは有ることが難しいと書いて有難い、ありがたいと読む。

ありがとうも感じにすると有難う、有ることが難しいという字で出来ている。

 

私は、それを知って以来、本当に有難い時は有難いと漢字で伝えるようにしている。

 

人にとっては大したことじゃなくても私にとっては有ることが難しいそんな事が多いのだ。そんな行為や言葉を私にかけてくれる人がいる。本当に有難い。感謝の気持ちでいっぱいだ。

今日のひとこま。

散らかった部屋で寝っ転がってボケーッとしてたら空が目に入った。

空には雲があった。雲を見ながら思う。あぁ、私は、雲が何に見えるか考えるのが好きだったなぁと。
病んでから今までの自分が空っぽに思えてたから少し嬉しくなった。


そんなことを考えていると、



ドッドッ ドッドッ ドッドッ ドッドッ ・・・



なんて音が聞こえた。まるで心臓の音の様だった。
実際は、近くの駐車場に止まった車の音楽が音漏れしてるだけだろう。なんてでかい音を車で流してんだ・・・

でも、その音は私の心臓の音のように思えた。

寝っ転がったまま空を、雲を、眺めながら、まるで私の心臓の音にも思える音を聞きながら

あぁ、生きてるんだなぁ。

ただ、それだけ思った。純粋に生きてるんだなぁとそれだけ。


しばらくすると心臓の音のような車の音は聞こえなくなった。
窓から見えてた雲も流れていった。


あぁ、世界はこうして流れてるのか。


と思った。

今の私には病むほどの悩みがあるけれど考えても考えても答えは出ない。ならば流れる世界にもう1度流されてみようと思った。

でも、前と同じように流されるだけじゃまた病む。今度は自分の意志を持って、心を殺さず流されよう。意志が、心が、流れに逆らいたいと思ったらその時は流れに逆らおう。

そんなことを思った今日のひとこま。